/近年、多様なデザイナーフォントが大量に出回って、視認性を強調する。しかし、フォントには、もともとあえて不慣れな人々に読みにくくする社会的な排他機能がある。専門連中の論争議論からネットモンスターの介入を防ぐために、ドレスコードと同様、クラスフォントが求められる。/
パソコンの普及とともに、フォント(字体)というものが一般にも広く知られるようになった。日本語フォントで近年の最大の問題は、横書きの標準化。もともと漢字やかなは縦書を前提としているが、小説などの文系書籍をのぞき、パソコンからビジネス書類、公共の場の掲示まで、どこもかしこも横書。これまでの縦書の印刷活字のフォントではかならずしもうまく対応できないのだ。
かようなわけで、大量のフォントデザイナーが出てきて、従来の縦書用のゴシック/明朝とは異なる独創的なフォントを試みている。これには、大きく2つの方向がある。ひとつは、「手書きフォント」と呼ばれるもので、居酒屋風だの、女子高生風だの、いろいろ。従来であれば本人が自分の個性で書くか、個別に面でデザイナーに発注していた掲示などが、それらしく簡単に作れる。もうひとつは、「デザイナーフォント」と呼ばれる、ゴシックとも明朝ともつかないもので、ユニヴァーサルな視認性を重視し、ふところやテンハネなどの文字の特徴を強調して、視力の弱い人でも見やすくしており、縦書小説でさえ、このような新しいフォントを好む出版社も少なくない。
しかし、近年の日本語のデザイナーフォントは、欧文のフォントデザインの哲学に比して大きな欠陥がある。書体は、あえて不慣れな人々には読みにくいことによって、社会階層を分離する機能がある、ということだ。欧文のフォントは、そのフォントを見ただけで、どういうジャンルの本なのか、どういう地域の掲示なのか、すぐにわかる。万人向け、公共の場、というのも、しょせんはひとつのジャンルや地域にすぎない。それ以外にもさまざまな排他的伝統クラスフォントがあり、ドレスコードと同様に、分違いの人が無駄に近づき、無用の混乱を招くことをおのずから牽制している。
日本語でも、篆書、隷書、くずし字、カナ書きと、かつてはクラスフォントが明確に確立されていた。明朝かなの口話体もまた、近代の印刷物によって普及したフォントであり、読書家知識人が威厳を保ちつつ公共向けに述べ伝えることを趣としており、知識人内部ではあくまで明朝小カナによる漢文訓読体が維持され、一般人の安易な介入を拒絶していた。一般人は、新聞の投稿でも、自分の文章が活字になるというだけで興奮した。
戦後の民主化によって、できるだけだれにでも読みやすく、という公共の方向性が打ち出されたのはよいとしても、近年のデザイナーや編集者が、かならずしもかつてのような読書家の知識人ではなく、彼らが生まれ育ってきた土壌である通俗スポーツ新聞と同じノリで、ごたまぜフォントの印刷物やベタフォントなネット投稿欄を作るものだから、相応の専門連中の論争議論にも、ドシロウトがタメで割り込んで引っかき回す、というのが当たり前になってしまった。あまりに騒々しいのでお引き取り願おうにも、上から目線だの何だの、さらに喚き散らして暴れ回る。ドレスコードが崩れてしまった結果、一流ホテルや高級ブランド店に普段着の金満モンスター客が入り込んで居座り、大声で騒ぐようになってしまったのと同じ。
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2018.04.18
2016.07.04
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
