零度のツィッター

2011.10.29

仕事術

零度のツィッター

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

バルトは、現代の批評を、生身の人間としての文体の体温さえも失った零度の書き付けと論じたが、自販機のような決まり仕事は、人々を、書き付けることでしか自分の存在を確かめられないところに追いやる。だが、そこには出口は無い。

 スマートフォンだかなんだか知らないが、街や電車にはずっとなにか携帯に打っている人たちがいっぱい。すごいのになると、携帯をいじりながら自転車に乗ってたりする。一方、私のメールボックスには、間断なく膨大なツィッターみたいのが送られてくる。そんなの、フォロー設定した覚えはないのだが、どこぞのSNS経由らしい。内容は、いま駅、とか、飲み会なう、とか、XXさんが2つめの宝箱を見つけました(ゲームか?)、とか。あまりにもどーでもいいので、悪いが、みんな迷惑メールに指定させてもらった。

 私のようにちんたら暮らしているのは論外なのだろうが、みんな、がんがん機械を活用して、どんどん仕事して、ばんばん交遊して、とにかく、もーのすごい充実した毎日を送っているようで、そりゃ、なにより。人生の実況中継をやるくらい、きっと周囲や世間の人々の注目を一身に集めているのだろう。

 古い話で恐縮だが、戦後の雑誌全盛時代に世界中に大量の自称批評家が湧き出て、批評家同士が批評の批評(というより、罵り合い)をするようになり、そのうち、みんな、なにをやってるんだか、わけがわからなくなった。で、バルトという批評家の一人が、言論(ラング)・文体(スティル)・書き付け(エクリチュール)の区別を言い出した。社会における言論としてではなく、とにかくただ、自分のいまを一方的に書き付ける。それも、それは文体のような生身の人間の体温さえもはや零度で、誰かに何かを伝えるわけでなし、直接目的語も間接目的語もない体験の自動詞だけが羅列され続ける。

 デカルト風に言えば、我書く、故に我在り、というところか。逆に言えば、いまを書き付けていないと、自分自身が秋風の中の焚き火の煙のように消えて無くなってしまうのだろう。映画の『さらば箱舟』だの『メメント』だのに、なんでもそこら中に書き付けておく記憶障害者=自己喪失者が出てくるが、それにそっくり。そのうち、自分で書き付けたことさえも忘れ、だれも読まない書き付けだけが、底なし壺の中に落ちていく。

 だが、言葉は、だれかのために、なにかのために、語りかけるものだ。この文章だって、あなたのために書いている。余計なお世話、とは思うが、あなたは、あなたの人生を、もっと大切にした方がいい。たしかに、いまの時代、決まり仕事を自販機のようにこなすだけで、生身の人間として疎外され、本人でさえ自分がどこにあるのか不安にもなるだろう。しかし、だからといって、そんな日々を人にさらしても、さらに安っぽく、貧しくなる。なにかを自慢すればするほど、本人の自己評価が透けて、融けて、消えてしまう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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