日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)07/17

2011.08.28

経営・マネジメント

日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)07/17

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

『朝まで生テレビ!』(1992)の番組資料としてまとめられ、『週刊エコノミスト』2000号(1992)に論文として掲載されたもの。ヤクザや暴力団についての概要を知るための資料。17分割で再録。著作権は著者が保持。

* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。

7)昭和恐慌と第2次世界大戦

27年、震災のために決済できなくなった多くの手形によって、日本は《金融恐慌》に陥った。これに対して、財閥は金融資本化してさらにその集中を強めていく一方、不況によって農村から吐きだされた過剰労働力によって、中小企業も乱立した。この危機に対し、浜口内閣は、弱体企業を整理して国際競争力を強化しようとする国益財閥保護育成的な「産業合理化」を推進した。しかし、この劇薬的な産業政策に、29年、ニューヨークに発する《大恐慌》による輸出激減・正貨流出の打撃が加わって深刻な《昭和恐慌》が発生し、大量の企業倒産と失業増加をもたらした。

これに対して、政府や府県は、不況失業対策として街商地区の拡大を許すとともに、社会主義運動の防止のため、これをヤクザによって組織化させた。たとえば、東京ではこの恐慌によっておよそ1万数千の街商が発生したが、これを〈東京露店商会〉(海原清平(代議士))(29~)の他、〈大日本神農会〉(中川良長(男爵))、〈昭和神農実業組合〉(倉持忠助(飯島一家))が支配搾取するようになった。

神戸の山口組も、29年の恐慌で大島組から完全に独立し、上納を取り止めた。また、同29年、神戸の川崎造船所の人員整理で失業した田岡一雄(16)は、やがて山口組に拾われることになる。翌30年、神戸市は不況失業対策に中央卸売市場の建設を計画したが、その建設予定地が大島組の縄張にあったため、山口組(山口登(28))は先制攻撃に出て、大島組の戦闘指揮者を射殺し、事務所を建設予定地の目前に移転し、その利権を奪取した。

ちょうどこのころ、大陸では蒋介石を中心とする反帝統一運動が興隆したため、日本政府は、山東出兵(27・28)、満州事変(31~33)、上海事変(32)を起こして中国を牽制し、侵略を拡大した。しかし、不況と戦争による国民の窮状をよそに、民政党は「三菱財閥の走狗」、政友会は「三井財閥の番犬」と呼ばれるまでに政財界は腐敗し、数々の汚職事件が発覚した。そして、不況の深刻化とともに、ふたたび左翼的労農運動も活発になったため、政府は繰り返しこれを弾圧して、その結集を阻止した。また、左翼と平行して、頭山・北、大川らの右翼の国家社会主義も急速に影響力を増し、下層労農出身者の多い少壮将校と結び付いて軍事クーデター的な「昭和維新」運動へと高まっていき、彼らのシンパによって、浜口首相狙撃事件(30)、三月事件(31)、十月事件(31)、血盟団事件(32)、五一五事件(32)が連続して勃発した。大阪の笹川良一(1899)も、31年、〈国粋大衆党〉を結成し、先行する博徒系の〈大日本正義団〉とともにイタリア的ファシズムを広めていった。また、32年には、右翼青年児玉誉士夫(21)も、〈独立青年社〉を設立し、政治家暗殺を計画したが、未遂のうちに逮捕された。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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