クールジャパンのウソ!:売物ジャポニズムvs見えざる日本の美

画像: photo AC: JAKUTAKU さん

2019.07.09

ライフ・ソーシャル

クールジャパンのウソ!:売物ジャポニズムvs見えざる日本の美

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/マンガやアニメは、戦後の反古典主義的(反戦前的)サブカルチャー。そのファンが世代的に社会から退場しつつあるために、市場は高齢化し、規模も縮小してきている。海外においても、ファンは「負け組」であり、例外的少数は富豪コレクターになるかもしれないが、大勢としては、趣味変革を起こすほどの力を持ちえない。/

「身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。」と言えば、在原業平(825~880)を主人公とする作者不詳の『伊勢物語』の冒頭部分にほかならない。そして、平安末期の西行(1118~90)や江戸前期の芭蕉(1644~94)もまた、身分を棄て、東国を旅して、詩歌に生きた。

『草枕』の主人公の口を借りる漱石もまた、「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」と言う。「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲まき込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩くらんでしまう」「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通しとおして、飽々した」と言い、うつくしき事がわかるためには、「自己の利害は棚へ上げ」、「わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ」と言い、「うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。」とする。

天心も、茶道は、「本質的に不完全なもの」「日常生活のむさ苦しい諸事実の中にある美」を崇拝する儀式であり、人間と自然に関する日本人の全見解を表している、と論じる。つまり、天心の言う茶道とは、漱石の言う、むさ苦しい日常の諸事実を棚上げして、そこに美を垣間見る、一時の解脱、ということになる。躙戸で日常から切り離された茶室の中にあっては、身分も無く、恩讐も無く、ただ一服の茶の湯のみの世界がある。かように私を去って後、「言葉にならぬものに耳を傾け、見えざるものを凝視する」ことができる、と、天心は言う。

漱石もまた、「すこしの間までも非人情の天地に逍遥したい」と言う。そして、ここで、上述の「能は情三分芸七分」が語られ、旅を能に見立て、人情を節約してみよう、と言い出す。しかし、旅を能に見立てるもなにも、能そのものが、おうおうに旅の筋立てなのだ。それも、世阿弥が確立した「夢幻能」という形式においては、旧跡を訪れた現在のワキの夢に過去のシテが現れ、シテの過去がそこに再現される。つまり、眼に見える現在から引き離されるとともに、そこに失われた過去が重ね合わされ、夢幻が消え去った後も、そこに意味の奥行と反響が残り続ける。


日本の見えざる美

夢幻能において、劇中劇として引用された元の物語を「本説」と言う。それは、藤原定家(1162~1241)が定式化した和歌の「本歌」取りの技巧を継承したものであり、芭蕉らもさかんに俳句連歌で用いている。たとえば、芭蕉が平泉で詠んだ「夏草や、兵どもが夢の跡」という句において、目の前に見えるのは、夏草でしかないのだが、芭蕉は、その利害の人情を、一時、解き放ち、そこに消え去った過去の夢幻を見る。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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