黒い白河:武家の世を作った老害色情魔皇

2018.08.07

開発秘話

黒い白河:武家の世を作った老害色情魔皇

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/歴史の教科書では、こんなえげつない皇室の恥は、まず語られまい。それで、明治の御親政以来、あたかも武家が政権を乗っ取ったがごとく言われるが、実情は、皇族の醜態こそが武家を戦乱に巻き込み、取って代わらざるをえない事態を引き起こした。/

/歴史の教科書では、こんなえげつない皇室の恥は、まず語られまい。それで、明治の御親政以来、あたかも武家が政権を乗っ取ったがごとく言われるが、実情は、皇族の醜態こそが武家を戦乱に巻き込み、取って代わらざるをえない事態を引き起こした。/


摂関政治の緩み(645~1087)

中大江皇子(第38代天智天皇、626~即位68~72)と中臣鎌足が蘇我家を倒した645年の大化の改新の後、皇統内紛の壬申の乱(672)はあったものの、その後は安定した統一国家となり、開発奨励のための墾田永年私財法(743)による税収悪化もあって、792年には桓武天皇が軍団や兵役を廃止。藤原家(中臣氏)と皇室が縁戚を結び、天皇の下、藤原家が大臣(摂政(幼帝補佐)や関白(成帝補佐))として実務に当たる、という権威と行政の分離によって、藤原道長(966~1028)を頂点とし、平和で安定した平安時代が築かれた。

ところが、墾田の私財化によって、私有の荘園が拡大。とくに寺社は、法外な敷域を擁した。くわえて、これらの私領間の土地紛争も頻発し、それぞれが武装。奈良興福寺や京都延暦寺、熊野三山(本宮・速玉・那智)、その他、地方支配の大寺社は、自前の戦闘大集団を抱え、焼討のような大規模な私闘を繰り広げ、政治への圧力も強める。くわえて、関東や東北は、いまだ「まつろわぬ民」で荒れていた。陸奥では土着豪族の阿倍氏が朝廷への貢祖を絶って独立勢力となり、1051年、清和系河内源氏の源頼義(988~1075、63歳)を陸奥守を送り込むが、力足らず、前九年の役(1051~62)となってしまい、出羽清原氏に援軍を頼み、ようやく治める。

第72代の白河天皇(1053~即位73~上皇87~法皇96~1129)も、閑院流藤原家の母(茂子、公成の娘)を持ち、71年、北家御堂流養女の賢子を中宮(第二皇后)として、当初は摂関政治を踏襲。京都で、1081年、滋賀園城寺の僧兵が暴れため、白河天皇(28歳)は、81年、頼義の子、義家(八幡太郎、1039~1106、42歳)に、これを追討させる。しかし、その復讐を防ぐべく、以来、源義家らは、無位無冠ながら、白河天皇の親衛隊として近侍することになる。

出羽と陸奥の清原家で内紛。義家(44歳)が陸奥守として送り込まれ、阿倍家の生き残りで連れ子養子となっていた藤原清衡(1056~1128、27歳)側に肩入れして、後三年の役(1083~87)となる。ただし、ここにおいてもいまだ朝廷に軍は無く、近畿や美濃、関東、そして、南東北から掻き集めた義家の私兵が活躍して鎮圧。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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