アマテラスは津波追悼神:むかし名古屋は海だった

画像: photo AC: シロップ さん

2016.12.31

開発秘話

アマテラスは津波追悼神:むかし名古屋は海だった

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/アマテラスは、出雲神話にしても、山人(ヤマト)皇史にしても、崇拝の史実が無く、記紀の中で浮いている。これを持ち込んだのは、伊勢湾の海人(アマ)の影響を強く受け、壬申の乱で政権を執り、記紀を作らせた天武・持統。その背景には、前代未聞の白鳳地震の大津波災害があった。/


海皇子と壬申の乱


 天武天皇、つまり大海人皇子もまた、太政大臣として近江大津宮にいたが、『紀』によれば、彼は身体屈強なだけでなく、天文遁甲(占術軍略)に長けていた。天智天皇が実子の弘文天皇(大友皇子)へ継承を決める前に、みずから身を引いて「出家」し、実母斉明天皇が造った吉野離宮に隠遁してしまった。

 しかし、72年5月(旧暦)にもなると、不穏なウワサが伝わってきた。6月22日、海部湯沐領に、挙兵して不破(関ケ原)を塞げ、と伝令を発し、24日にはササラ皇女(天智の娘、後の持統天皇)ほか数十人が徒歩で吉野を脱し、7月2日(旧暦の6月は29日までなので22日から9日後)には、関ケ原に4万の兵を集め、朝廷軍に突っ込んで行く。これは、古代最大の内戦だ。

 朝廷軍は、唐侵攻に備えていたから、4万の兵を揃えるのも無理はなかっただろうが(それでも九州などは海岸防備のために出兵を拒否している)、天武側がわずか9日で同じ4万を集めたのは、いくら広大な海部湯沐領を持っていて、まとまって尾張国司軍2万が付いたにしても、これは尋常な手腕ではない。

 彼は、伊賀や伊勢、尾張だけでなく、美濃・信濃・三河にも動員をかけている。これら4万の兵が関ケ原に到着できたのは、彼が梅雨の増水を利用して木曽川や長良川、伊勢湾一帯の水運力をフルに活用できたからだろう。そして、7月22日の決戦まで20日間。4万人20日分、1日2食としても160万食の兵糧を調達し、これを大津まで延びていく最前線まで運び込むとなると、兵のほかに、さらに1万人くらいの後方支援があったはずだ。

 当時の日本の総人口が600万程度と見積もられていることからすれば、当時はまだ僻地とされていた東国で、たった8日で5万も動員できたのは、天武がもともと東国、というより伊勢湾の「海皇子」として信望を集めていたから。658年の有馬皇子の謀反計画のように、長年の山人(ヤマト)支配、とくに失敗続きの半島遠征徴用に対して、海人(アマ)たちは不満を募らせていた。それが、壬申の乱をきっかけに火がついたのだ。


白鳳地震と伊勢創建


 しかし、彼が天皇になってからは、さんざんだった。半島からはあいかわらず反唐支援を要請工作をする王族たちがやってくる一方、唐からも懐柔工作の使者が次々と来訪し、国内は反唐か親唐かで揉め続け、おまけに地震だ、噴火だ、彗星だ、と、天変地異だらけ。

 679年の筑紫大地震に始まり、とくに684年、天武13年冬10月14日(新暦11月26日)の「白鳳地震」は、南海・東南海・東海三連動の超巨大地震で、この後に伊豆諸島や浅間山なども噴火し、土佐から紀伊半島、東海にまで、壊滅的な被害をもたらしている。これによって、彼の政治基盤であった伊勢湾ほかの海人(アマ)も、甚大な損害を被ったにちがいない。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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