江戸時代に藩は無かった:あえての非効率主義

2016.10.22

ライフ・ソーシャル

江戸時代に藩は無かった:あえての非効率主義

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/江戸幕府は、御料、街道、寺社領などで、一国の大名領を寸断し、また、転封や相続で全国各地に分散させてしまった。このせいで、各大名は、幕府の徹底監視下におかれ、また、隣接他家と相互牽制を強いられるところとなった。しかし、この救いがたい非効率こそが、江戸時代三百年の平和安泰の秘訣だった。/

 時代劇、それどころか歴史の教科書ですら、小田原藩、みたいな表現が出てくる。ところが、じつは江戸時代、「藩」なんて無かった。あれは、明治時代になってできた行政区分。もちろん地方としての「国」はあったし、大名はいた。だが、奈良平安の律令制のように、一国一国司ではなく、鎌倉室町を経て、もはや国とは名ばかりの、それぞれの村ごとに異なる不在領主がいる荘園の寄せ集め。むしろ戦国大名の方が、現代の県のように、力ずくで地域一円を面で支配していた。しかし、そんな状況を放置していたら、いつまた地方から反乱軍として蜂起してくるかわかったものではない。そこで、幕府は、それぞれの大名の知行地を寸断し、あえてまた全国ばらばらに再分散してしまったのだ。


 まず幕府は、全国各地の要所を「御料」、いわゆる天領にした。江戸や大坂、京都・奈良の大都市のほか、長崎、伏見、堺、下田、清水、駿府、山田(伊勢)、佐渡などに遠国奉行を置き、その他、全国の約15%の村々や港湾、鉱山などを公領として幕府の収益に充てた。また、全国に張り巡らされた主要街道と宿場も、直轄。道中奉行ないし勘定奉行の支配とされた。逆に言うと、大名家領の中心の城下町の中まで幕府直轄の街道が貫いて通り抜けている。


 やくざ者などが都市部や宿場町にたむろったのも、地元の大名家が手を出せないから。城代が武器を持った大勢の家来を連れて宿場町に乗り込み、大捕り物を繰り広げる、なんていうことは、ありえなかった。そんなことをすれば、天下の町・街道を堰き止め、騒ぎを起こすとは、幕府に叛意あり、として、お取り潰し。そのくせ、幕府は、町の整備、街道の道や橋の普請(補修修理造営)は、大名たちを無償で駆り出し、浪費を強いた。


 さらに、どこの大名家領の中にも、やたら数多くの寺社がある。おまけに、これらがそれぞれにどでかい寺社領の村々を保ち、門前町まで持っている。ところが、これらの村や町も、大名ではなく、それぞれの寺社の支配下にあり、本山末寺制度で、最終的には幕府寺社奉行が管理。大名は、これらの領域に手を出せなかっただけでなく、城下領内のあちこちに幕府に筒抜けの監視機関があるようなもの。


 山林についても、所有権は、禁裏、御料林、大名家領、寺社領、村落入会地と、ばらばらのぐしゃぐしゃ。境界もあいまいなところばかりで、へたに手出しできない。それも、戦国時代までのでたらめな木材と燃料の大量消費によって、実際はもはや荒廃した急斜面の禿げ山が延々と広がっているような惨憺たる状態。これがしょっちゅう山崩れ、土石流などの大災害を村々や河川、街道に引き起こした。それで、山林は、まとめて地元の大名家にお預け支配とされたものの、実質的には一切の立入伐採が幕府に禁じられ、むしろその植樹防災対策だけが大名家の責務となり、まったくのひどいお荷物。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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