家康が大化けしたわけ:甲州流軍学

2016.10.17

開発秘話

家康が大化けしたわけ:甲州流軍学

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/徳川は、三河土豪の連合軍にすぎなかった。ところが、信長によって武田家を失った甲州武士団は、家康を新たな後継者とすることによって秀吉と戦い、勝って江戸幕府を興した。その強さの秘密は、信玄以来の絶対的な中央集権と騎馬機動力の電撃戦にあった。/


 平安時代、関東・甲州は「日本」の北限であり、蝦夷との戦いの最前線だった。まず朝廷で出世の見込みの立たない桓武天皇の曽孫が桓武平氏として、898年に上総介となり、関東豪族を鎮撫。ところが、平氏内の親族争いから、939年には平将門が「新皇」として関東の分国化を図る。翌年には鎮圧されたが、こんどは関東を抑えるために、1029年、河内源氏を甲斐守として派遣。連中は関東にも勢力を拡大。これが武田家の源流とされ、源頼朝の鎌倉幕府創建も支援した。とはいえ、1416年の上杉禅秀の乱で、これもいったん滅亡。守護代の跡部氏、国人の穴山氏や小山田氏などがあい争う。第18代とかいう武田信虎(1498~1574)が担ぎ上げられ、1508年に統一。ただし、国人たちもたがいに縁戚を結んでおり、宗家ほか、みんな武田家を名乗っている。つまり、武田家は実質的には甲州武士の一般名称。


 とはいえ、信虎の子、武田信玄(1521~73)は、傑出した存在だった。彼は若くして、関東の北条氏、駿河の今川氏をにらみつつ、信州へと勢力拡大を試みる。ここにおいて、1543年、山本勘助(1493~1561、50歳)とかいう醜怪な浪人者を召し抱えた。たかだか足軽大将ながら、やたら各地の武将、古今の兵法に詳しく、信玄を軍師として補佐したとか、しないとか。だが、むしろ信玄の実弟、信繁(1525~61)こそ軍師の才があり、『信玄家法』下巻として知られる九九条は、信玄を頂点とする武田軍の軍規戦術をわかりやすくまとめており、これが信玄の強さの源となった。その要点は、分国連合から中央集権への再編であり、また、その戦術は、騎馬を生かした近代で言う電撃戦、敵の準備が整っていない点に集中して機動力で撃破する、というものである。


 しかし、電撃戦は、深追いになりやすい。1561年には越後の上杉謙信と川中島の接戦を演じるも、勘助、信繁をともに失う。信玄は、その前年の桶狭間の戦いで今川氏が討ち取られたのに応じ、機動力を発揮して一気に反転し、南下西進。73年には三方ヶ原の戦いで家康を打ち負かす。だが、病状悪化、同年に死去。息子の勝頼は騎馬の機動力を駆使するも、75年、長篠の戦いで信長の鉄砲隊に敗れ、82年3月には信州高遠城を落とされ、甲府を経て、関東の境の天目山まで追われて自刃。徹底的な武田残党狩りが行われた。


 ただし、関東や信州、駿河で武田の配下にあった者は追求されず、また、家康が武田穴山家から側室を取っていたこともあって、信長の命に反して多くの残党をひそかに匿ったとされる。おりしも同年6月2日、本能寺の変で信長が殺される。家康は落ち武者狩りを恐れ、信長のかたきも打たず、大阪から伊賀越えで岡崎に逃げ帰ったとされるが、それは違う。4日に帰国するとただちに空白の広大な武田領120万石をめがけて突進。関東の北条氏、越後の上杉氏と争い、秀吉が光秀追討や清洲会議で柴田勝家とがたがたやっている間に、甲州と信州、つまり、旧武田領の大半を自分のものにしてしまった。56万石から一気に三倍以上の180万石の大大名。旧織田領を勝家らと分け合って大阪・山城・丹波・河内を配下に納めた秀吉よりはるかに巨大。もはや対立は不可避だ。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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