誤解され続けてきた和の精神

2008.01.04

仕事術

誤解され続けてきた和の精神

竹林 篤実
コミュニケーション研究所 代表

「以和為貴(和を以て貴しと為せ)」といえば聖徳太子のキャッチフレーズである。が、この歴史上の名言こそは、その本来の意味をもっとも誤解されている言葉だ。太子が説いた本来の「和の精神」とは何だろうか。

和の国といい大和の国という。名前が表わすように日本では「和の精
神」をもって佳しとしてきた。では「和の精神」とは何だろうか。一般
的にはあからさまに人と対立することなく、仲良くやっていくことぐら
いに考えられている。

確かに、このように考えるのは悪いことではない。人とぶつかることな
く過ごせるのならば、それに越したことはない。何も自らわざわざ波風
を立てる必要もない。ここまでの話に対してはおそらく際立った反論は
出ないだろう。

とはいえここで一つ疑問が生まれる。人と対立せずに一生やっていくな
どということが果たして可能なのだろうか。もちろん不可能ではないか
もしれない、自分を徹底的に殺しさえすれば、あるいは他人のことを一
切顧みなければ。しかし、それで意義のある人生といえるだろうか。そ
もそも聖徳太子の「和を以て貴しと為す」という言葉は、そのような人
生観を示しているのだろうか。

違うと思う。

むしろ他者との対立を前提とした上で太子は「和」の重要性を説いたの
ではないだろうか。この世に自分とまったく同じ考え方、感じ方、育ち
方をした人間など一人もいない。こうした極めてクールな人間観こそが
太子の言葉の背景にはあるのだと思う。世の中とはつまり、自分とは異
なる人間から成り立っている世界のことである。この認識の上で、だか
らこそ「和」を大切にせよと太子は述べた。

対立を恐れてはいけないのである。むしろ対立してぶつかるからこそ、
お互いの考えていることが相対化される。自分のポジションと相手のポ
ジションの違いがわかれば、その間をつなぐ道筋を付けることもでき
る。コミュニケーションはここからスタートする。

言葉本来の意味である「双方向の」コミュニケーションは、自分が言い
たいことを相手に投げつけて終わり、では決してない。自分が伝えたい
ことを、自分が思った通りに相手にわかってもらえなければ、コミュニ
ケーションが成立したとはいえない。

逆もまた真なりである。

相手が伝えたいと思っていることを、相手の望むように理解してあげる
ことが必要だ。お互いの思いがこうして噛み合ったときにコミュニケー
ションは全うされる。であるならば安直な「和」などを求めてはならな
いことは自明の理である。

そのためには、聴くことが大切になる。耳で聞くのではなく、心で聴く
のである。相手のことをきちんと理解するために聴く。この人はどうい
う考え方をしているのか、なぜ、そのような考え方をするようになった
のか。できるなら、相手の生い立ちにまで思いを馳せてあげて。

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