説明責任では足りない!求められる「アカウンタビリティ」

画像: Ryota Nakanishi

2010.01.25

組織・人材

説明責任では足りない!求められる「アカウンタビリティ」

松本 真治
有限会社ワースプランニング 代表取締役

 最近の日本の政治を見ていると「アカウンタビリティ」が欠如しているのではないかとつくづく思う。なにも政治に限ったことではないが、日本の組織においてはこの「アカウンタビリティ」が十分に果たせていないリーダーが実に多い。そもそも、「アカウンタビリティ」とは疑惑や不祥事など何か事が起こった時にだけ行うものではなく、常日頃から行うべきリーダーとしての重要なコンピテンシーである。

 「アカウンタビリティ」は外来語で、Accounting(会計)とResponsibility(責任)の合成語で、「会計説明責任」という意味であった。時代の変遷とともに拡大解釈され現代では、「あらゆる組織体において権限を有する者が自ら行った結果、または行うべきことを怠ったことが招いた結果について、利害関係者に対して合理的な説明を行う責務」ということを意味する。

 日本ではこの「アカウンタビリティ」を単に「説明責任」と訳して捉えることも多いが、説明を十分に行えばアカウンタビリティを果たしたことになるのだろうか。たとえ説明をしたとしても、受け手である人が、その説明に対して理解し納得しなければ説明そのものが意味をなくすわけであるから、この場合にはアカウンタビリティを果たしたとは言えない。当たり前のことであるが、この辺の認識が欠けているようである。

 このことから、アカウンタビリティとは、受け手の理解と納得の得られる説明責任ということになるが、しかるべき立場にある人に対しては、その責任の重要性から説明だけにとどまらずもっと広い意味で捉えられるようになってきている。

 リーダーとして「アカウンタビリティ」を果たすということは、結果の説明にとどまらず、結果に対する内外の評価を得て、将来のビジョンを示し、組織成果を生み出すためにどの様に行動するのかについて説明する責任までをいうようになってきているのである。

 アメリカでは、この「アカウンタビリティ」が組織のリーダーに必要不可欠なコンピテンシーとして認識されていて、「アカウンタビリティ」を常に追求し、また、追求される社会のシステムが既にできている。

 対して、日本ではどうであろうか。まだまだ浸透していないのが実情であろう。「アカウンタビリティ」に該当する日本の言葉が見当たらないこと自体、日本ではその概念が未発達であるといっても過言ではないだろう。(一部では「説明責任」と訳されているが本来の意味をなしていない。)

 例えば、アメリカの国立大学では、教官は年度末に年間の活動の総括レポートを作成し、学科主任に提出する。教育面での業績評価は学生に対するアンケート結果に基づいて行う。そしてこれらのデータを分析し,その結果をフィードバックして大学運営にどの様に役立てるのかについて説明する責務を負っている。

 国立大学の活動は税金を使って行っている国の活動であるから,大学の人間として国費を確かに正当かつ有効に使っているかについて示す責務、すなわちアカウンタビリティが要求されているのである。残念ながら、日本の国立大学にはこの様なシステムはない。

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松本 真治

松本 真治

有限会社ワースプランニング 代表取締役

人材・組織開発コンサルタント。 人材・組織の潜在力を引き出すアセスメント(サーベイ)の企画/開発/運用から本質的課題を抽出し、課題解決のための最適なソリューション(研修・教育プログラム)の設計/運営までのコンサルティング・サービスを展開中。 人/組織が本来持ち備えている力(潜在力)を引き出し、人/組織が自律的で持続的な成長を遂げていく支援をさせていただいています。

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